日本茶が文脈を失った理由
ぶん‐みゃく【文脈】
1 文章の流れの中にある意味内容のつながりぐあい。多くは、文と文の論理的関係、語と語の意味的関連の中にある。文章の筋道。文の脈絡。コンテクスト。「―で語の意味も変わる」「―をたどる」
2 一般に、物事の筋道。また、物事の背景。「政治改革の―でながめると」
ここで言う文脈は、1ではなく、2のことです。
ここ30年ほど僕が生きてきた中で、日本茶(緑茶)は常に文脈を失っていたように思います。日本茶を研究し始める前、僕は日本茶の文脈、つまりその背景やそこに至る経緯など考えたこともありませんでした。
全くの私見で恐縮ですが、例えば身近な他のもので考えると、
【文脈アリ】
米
授業でも習ったし、品種の違いもやたらと強調され、なんだか文脈を意識せざるを得ない。
コーヒー
外国から来たという事実、産地の名前のような格好いいネーミング、「ビジネスマンはコーヒー」のようなイメージのおかげで、自然と文脈を意識したり、意識するのが格好いいというブランドイメージから意識し始める。
紅茶
コーヒーと同じ舶来モノで、さらに香りの強さから刺激的に感じる嗜好品のため、香りと(と味。でも実際には香り)の違いが分かりやすく、文脈を意識する。
うどん
讃岐うどんが全国デビューする前は、うどんの文脈は意識しなかったが、いまや讃岐系?関西系?冷凍ならタピオカ入りなのか?など非常に意識する。
【文脈ナシ】
水
色々なブランドの水が出てきたが、日本の水はどれもうまい、どれも軟水ということでそとんど文脈を意識しない。
そうめん
揖保の糸、ごめんなさい。でも、うどんと違い、そうめんは「そうめん」でひとくくりの方が多いのでは?非常に均一な製品のために、作り方、産地などの文脈を意識しない。
さて、改めて言いますが、全くの私見です。いや、そうじゃないという反論もあると思いますが、個人的に大衆の声と思うところを挙げています。揖保の糸に罪はありません。
共通項として見えてくるもの
①比較する対象が、身近な情報として存在する
②比較対象との違いをイメージできる
という二つがあると思っています。
米で言うと、①は品種や産地の情報、②は①とリンクする水分量や甘み。
これが日本人にとって当たり前になったのは、教育によるものが大きいと思います。
しかし、コーヒーなど他の食品を見てみると、教育だけがトリガーではないことが分かります。
"舶来" という情報収集をしたくなる状況や、製品ごとの産地・製法での味の違いの強調によるイメージ形成がトリガーの一つかと思います。
日本茶の活路は?
①産地と製法の明確化
スーパーの棚をご覧ください。
このような商品名の日本茶が並んでいますが、実は、時には(もしくは多くの場合)全く同じ内容のものを指していたりします。
・最大産地である静岡産の、
・静岡で最大割合を占めるやぶきたという品種の、
・これまた静岡で最大割合を占める深蒸しという製法で作られた煎茶(煎茶は全て不発酵茶=緑茶)
という超メジャーな日本茶が、上記のように全くバラバラな表記で棚に並んでいます。
これでは、比較も何もあったもんじゃないです。
②小学校での教育
米と同様に、地理の教育課程で事実を教えることです。中学高校より、純粋に情報を受け入れる定年時で行うことが望ましいと思っています。
①と同様に、事実を知れば人は考えます。
現在の状態であれば、日本茶は依然として文脈を失ったままです。
事実を整理された状態で届ける。
これが最も大事ではないでしょうか?
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日本茶博士は、日本人が知っているようで全然知らない日本茶(緑茶)という食文化についての情報を、日本人にこそ正確に届けます。
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